山本 周五郎

菊千代抄

一

菊千代は巻野越後守貞良の第一子として生れた。母は松平和泉守乗佑の女である。貞良は雁の間詰の朝散太夫で、そのころ寺社奉行を勤め、なかなかはぶりがよかった。

巻野家の上屋敷は丸の内にあったが、菊千代はおもに日本橋浜町の中屋敷か、深川小名木沢の下屋敷でそだてられた。養育の責任者は樋口次郎兵衛といい、もと次席家老を勤めた謹厳でしずかな老人だった。身のまわりのせわは松尾という乳母がした。彼女は木下市郎右衛門という軽い身分のものの娘で、いちど物頭の屋代藤七へ嫁したが、二年めに子を産むとまもなく死別してしまった。そのときはすでに菊千代の乳母にあがっていたので、以来ずっと側をはなれず仕えとおした。

父の貞良は月に五たびくらいは欠かさず会いに来た。髭の濃い、眼の大きな、こわいような顔で、背丈の五尺八寸あまりもある、躯つきの逞しい人だったが、口のききぶりはしずかでやさしく、笑うと濃い口髭の下にまっ白なきれいな歯が見え、片方の頬にえくぼができる。いかにも穏やかな温かそうな笑い顔で、これには誰もがひきつけられずにはいられなかったようだ。

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