山本 周五郎
日本婦道記
一
「あたしの主人はこんど酒井さまのお馬脇に出世したそうですよ」
厚い大きな唇がすばらしく早く動いて、調子の狂った楽器のような、ひどく嗄れた声が止めどもなく迸しり出た。
「……お馬脇といえば武士なら本陣の旗もとですからね、足軽としてはこれより名誉なことはありませんよ、なにしろ酒井さまから直にお声をかけて頂けるんですから、その刀を取れとか沓を持てとか、そういったようにね、それからまた銃隊をさがらせろ、なんという命令を伝えにもゆきます、そういうときは酒井さまのお口まねだから、銃隊のお旗がしらに向っても銃隊さがれとどなりつけるんですよ、――銃隊さがれ、ふだんならそんな口を利けばそれこそお咎めものでしょう、けれどもお口まねなんだから誰もなんとも云うわけにはいかないんですとさ」