江戸川 乱歩

断崖

春、K温泉から山路をのぼること一哩、はるか眼の下に渓流をのぞむ断崖の上、自然石のベンチに肩をならべて男女が語りあっていた。男は二十七八歳、女はそれより二つ三つ年上、二人とも温泉宿のゆかたに丹前をかさねている。

女「たえず思いだしていながら、話せないっていうのは、息ぐるしいものね。あれからもうずいぶんになるのに、あたしたち一度も、あの時のこと話しあっていないでしょう。ゆっくり思い出しながら、順序をたてて、おさらいがしてみたくなったわ。あなたは、いや?」

男「いやということはないさ。おさらいをしてもいいよ。君の忘れているところは、僕が思い出すようにしてね」

女「じゃあ、はじめるわ。……最初あれに気づいたのは、ある晩、ベッドの中で、斎藤と抱きあって、頬と頬をくっつけて、そして、斎藤がいつものように泣いていた時よ。くっつけ合った二人の頬のあいだに、涙があふれて、あたしの口に塩っぱい液体が、ドクドク流れこんでくるのよ」

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