佐藤 春夫

芥川竜之介を哭す

最後まで理智を友としたやうに見える芥川龍之介を弔ふためには、故人もこれを厭ふたところの感傷の癖をさけて、評論の形を以てこれを爲すことを、僕の友人の良き靈は宥してくれるだらうと思ふ。

「爲す者のみひとりこれを解す」これはニイチエの言葉であるが、僕はまだ一ぺんも自分を殺したものではない。だからこの友人のこの特別な死の消息については到底了解出來ないのは云ふまでもない。だから僕は彼を、ただ僕にはかう見えるといふことによつて結局僕自身をしか語らないだらう。さうして讀者は亦、讀者の好むがごとくにこれを讀むことが出來る。つまりは、ぐうたらで生き殘つてゐる人間の身勝手な言ひ草であるかも知れない。僕のよき友人であつた故人は、最近では僕の不作法を戯れに敢然性と呼んで、寛大にもそれを見逃してくれた。だから若しこの文中に、少しでも、期せずして彼の靈に禮を失するやうなことがあつたにしても、思ふに彼は微笑を以て宥恕してくれるだらう。

人としてまた藝術家としての芥川龍之介にとつて、最も致命的――嗟、この言葉こそ今は最も文字通りに讀まなければならなくなつたが――なものは、彼が多くの場合、否、殆どいつも容易に胸襟を開くことの出來ない人であつたといふ一點である。彼は端的に自己を語り出すことには堪えられない人であつた。やさしい心情と複雜な生活とを藏しながら一切これを洩し得ないのである。さうして彼も亦自己韜晦者であつた。彼は最も廻りくどい方法でただ彼自身を表現した。この事實は彼の最後の手記に於てもこれを見出すことが出來る。彼のやうな性格にとつてはあらゆる種類の自己告白は野卑極まる惡趣味に見えたに違ひない。「エトルリヤ

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