柳田 国男

広島へ煙草買ひに

といふ語が今もまだ漠然と用ゐられて居るのを見ても、我々の「異郷」に名を與へる必要の、新たに起つたものであることが察せられる。

(世間)は外來語であり、且つ又讀書語でもあるが、それでも必要があると我々は之を採用した。セケンシといふ語などは、前者を日常用に編入してから後に、我々の手で拵へた新語のやうに思ふ。

は辭書には皆輕蔑の感を伴なふものゝやうに解して居るが、それは又一段の變遷であらうと思ふ。少なくとも私などは、やゝ羨みの感じを以てこの一語を習ひ取つた。村の人たちの知らぬことを知つて居る者、旅行が好きで異郷の見聞に富む人といふのが、その最初の意味であつたらしい。無論斯ういふ人は農作は不得手であり、先例因習には異を唱へやすいだらうから、一方に嫌ひさげすみ警戒するやうな者も無かつたとは言へない。其上に彼等があまりにも歡迎せられた結果、近代は寧ろセケンといふ語が平凡になつて、いつ迄も其知識を元手にしようとする世間師を、侮り輕しめる心持が添ふことにもなつたのである。

といふ言葉が鹿兒島などにはある。世間が既に親しいものになつてしまふと、その外側に今一つ、大世間といふ層が想定せられる。さうしてやはり未知の世界、誰といふことも無く自分と對立するものを、意味するやうになつて來たのである。

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