谷崎 潤一郎

母を恋うる記

いにしへに恋ふる鳥かもゆづる葉の

     三井の上よりなき渡り行く

           ―――万葉集―――

………空はどんよりと曇って居るけれど、月は深い雲の奥に呑まれて居るけれど、それでも何処からか光が洩れて来るのであろう、外の面は白々と明るくなって居るのである。その明るさは、明るいと思えば可なり明るいようで、路ばたの小石までがはっきりと見えるほどでありながら、何だか眼の前がもやもやと霞んで居て、遠くをじっと見詰めると、瞳が擽ったいように感ぜられる、一種不思議な、幻のような明るさである。何か、人間の世を離れた、遥かな遥かな無窮の国を想わせるような明るさである。その時の気持次第で、闇夜とも月夜とも孰方とも考えられるような晩である。しろじろとした中にも際立って白い一とすじの街道が、私の行く手を真直に走って居た。街道の両側には長い長い松並木が眼のとどく限り続いて、それが折々左の方から吹いて来る風のためにざわざわと枝葉を鳴らして居た。風は妙に湿り気を含んだ、潮の香の高い風であった。きっと海が近いんだなと、私は思った。私は七つか八つの子供であったし、おまけに幼い時分から極めて臆病な少年であったから、こんな夜更けにこんな淋しい田舎路を独りで歩くのは随分心細かった。なぜ乳母が一緒に来てくれなかったんだろう。乳母はあんまり私がいじめるので、怒って家を出てしまったのじゃないか知ら。そう思いながらも、私はいつも程恐がらないで、その街道をひたすら辿って行った。私の小さな胸の中は、夜路の恐ろしさよりももっと辛い遣るせない悲しみのために一杯になって居た。私の家が、あの賑かな日本橋の真中にあった

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