佐藤 春夫

夢に荷風先生を見る記

荷風先生の回想なら拙作「小説永井荷風伝」のなかに何一つ漏さず書き尽して一つの話題をも漏らさなかつた。だからここに新しく書きかへる事は何もない。

小説荷風伝を書いた結果、荷風に関して別に書くべき事が生じたのは「実説永井荷風」とでも銘を打つて非小説の文壇生活の実情をもルポルタージュとして記録して置きたいと思つてゐるが、それはここに書くには少々長すぎるばかりか、あまり適当ではないやうな気がする。

そこで気軽るに執筆を引き受けては置いたやうなものの、書くべきことは何もないといふよりは小説荷風伝を書いた事と実説荷風に書きたい事とによつて、荷風晩年の側近と自称して荷風を食ひ物にしてゐる下劣な男とそんな男を無条件に信じてゐる馬鹿な一批評家のおかげで、わたくしは彼らがわたくしを中傷するために口なき故人の語をつくり出したとは信じながらも、わたくしは往年の荷風崇拝から脱脚したやうな気がして、何も改めて書きたくないと思つてゐたのかも知れない。

ところが、ついこのほど、あれは十日か二週間ばかり前でもあつたらうか、夢に荷風先生を見てさめ、自分はまだやはり往年の荷風崇拝から卒業し切つてゐないのだ。自分の心の底に根を張つた昔ながらの荷風先生は今もまだわたくしの心に生きてゐたことを知つた。そこでその夢を語る痴人にならうと思ふ。

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