中谷 宇吉郎

『死者の書』

遠い大昔、まだ死者が蘇ったり、化身の人が現われたり、目に見えぬ鬼神と人間との間に誓が交されたりした時代。そういう時代は、もう返って来ないであろう。しかしそういう時代への人間のあこがれは、いつの世になっても、全く消え果てるものではなかろう。そういう意味で折口信夫氏の『死者の書』は、いつまでも生命があるもののように思われる。藤原南家の郎女中将姫の伝説を小説化したもの、というよりも長詩と言った方がよいが、あの時代の人のこころが直接に感得されるような気がして、何度読んでも夢はますます美しくなる。

理性と感性との分離もまだ出来ていなかった古代人の心理は、歴史書からはもちろん覗けない。古代を舞台にとった小説も、所詮は近代人の描いた未開人の絵である。古代人のこころは「説明」では現わせない。折口さんのこの書は、古代に関する深い学識をもった優れた詩人、という稀な人がつくった、稀な書であるように、私には感ぜられる。

初めに、滋賀津彦のよみがえりの場合と、郎女の魂呼いの場面とが出て来る。この二節を読んだだけで、もう語部の媼のいた時代の当麻の里に、読者は引き入れられてしまう。

二上山の男嶽女嶽の間から、当麻路が、白々と広く降って来る。「月は、依然として照っていた。山が高いので、光りにあたるものが少なかった。山を照し、谷を輝かして、剰る光りは、また空に跳ね返って、残る隈々までも、鮮やかにうつし出」している。深夜である。

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