中谷 宇吉郎
八幡馬と墨の研究
もう二十年以上も昔の話であるが、寺田寅彦先生が、墨流しの研究をされたことがある。この研究は、墨と硯との研究に発展し、東洋の墨は、非常に不思議な性質を持っていることがわかった。
この研究は、先生の晩年のいろいろ多方面にわたる研究の中でも、とくに注目すべき業績である。しかしこの研究が完成を見ないうちに、先生は亡くなられてしまった。
一番惜しい点は、この研究が、日本の普通の墨と硯だけについて、行なわれたことである。シナの名墨や、端溪などの名硯について、同様な研究をしてみたらいわゆる墨色とか、溌墨とかいう東洋の墨の神秘に科学的な説明がある程度まで与えられるかもしれない。
こういうことを思いついたのは、先生が亡くなられた直後のことである。そのころ私は、伊豆の伊東で、二年ばかり療養生活を送っていたが、その暇つぶしには、丁度手ごろの題目である。