永井 荷風

花火

午飯の箸を取ろうとした時ポンと何処かで花火の音がした。梅雨も漸く明けぢかい曇った日である。涼しい風が絶えず窓の簾を動かしている。見れば狭い路地裏の家々には軒並に国旗が出してあった。国旗のないのはわが家の格子戸ばかりである。わたしは始めて今日は東京市欧洲戦争講和記念祭の当日であることを思出した。

午飯をすますとわたしは昨日から張りかけた押入の壁を張ってしまおうと、手拭で斜に片袖を結び上げて刷毛を取った。

去年の暮押詰って、然も雪のちらほら降り出した日であった。この路地裏に引越した其日から押入の壁土のざらざら落ちるのが気になってならなかったが、いつか其の儘半年たってしまったのだ。

過ぐる年まだ家には母もすこやかに妻もあった頃、広い二階の縁側で穏かな小春の日を浴びながら蔵書の裏打をした事があった。それから何時ともなくわたしは用のない退屈な折々糊仕事をするようになった。年をとると段々妙な癖が出る。

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