永井 荷風

偏奇館漫録

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庚申の年孟夏居を麻布に移す。ペンキ塗の二階家なり。因って偏奇館と名づく。内に障子襖なく代うるに[#「代うるに」は底本では「代ふるに」]扉を以てし窓に雨戸を用いず硝子を張り床に畳を敷かず榻を置く。朝に簾を捲くに及ばず夜に戸を閉すの煩なし。冬来るも経師屋を呼ばず大掃除となるも亦畳屋に用なからん。偏奇館甚独居に便なり。

門を出で細径を行く事数十歩始めて街路に達す。細径は一度下って復登る事渓谷に似たれば貴人の自動車土を捲いて来るの虞なく番地は近隣一帯皆同じければ訪問記者を惑すによし。偏奇館甚隠棲に適せり。

偏奇館[#「偏奇館」は底本では「偏寄館」]僅に二十坪、庭亦狭し。然れども家は東南の崖に面勢し窓外遮るものなく臥して白雲の行くを看る。崖に竹林あり。雨は絃を撫するが如く風は渓流の響をなす。崖下の人家多くは庭ありて花を植ゆ。崖上の高閣は燈火燦然として人影走馬燈に似たり。偏奇館独り窓に倚るも愁思少し。

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