横光 利一
書翰
50 大正十二、三年(推定) 横光君子宛
くれぐれも云つて來たことだが、どうか、僕に滿足してもらひたい。滿足出來ないのは分つてゐる。しかし、人間と云ふものは、どんな境遇へいつても、どんな人間に逢つても必ず、それ相當な不滿があるに定つてゐるのだから。あなたが溜息をつくときの心理が分ると、僕にも、猛然と反抗心が起つて、あなたのそのときの心理のやうな氣持ちが湧き上つて來る。俺に滿足してくれないのだ。さう思ふと、愛したくても愛情が出ない、侮辱されたやうな氣がするのだ。
僕はあなたを妻にしてありがたいと思つてゐるのだ。どんな顏をしてゐるときでも、さう思つてゐるのである。それも知らないで、不愉快な溜息されるやうな氣持ちになられては、生活して行く氣が起らない。僕があなたでなければいけないのだと思つて、あなたを妻にすることが出來、あなたが僕を愛してくれて、さうして僕の妻になつてくれたのなら、もうこれ以上僕にとつてはありがたいことはないのである。誰でもいづれ不滿はあるにちがひないのだ。それを忍耐してくれて、初めてありがたいのである。愛情が、腹のままに湧き出ることが出來るのである。こんなことはもう書きたくはない。やめよう。とにかく、お願ひだから、溜息なんかよして貰ひたいものである。
それから、此の間書くと云つたことを一寸書く、長く書かねば分るまいけれど、今はひまがない。笛を山の中で吹いたと云ふこと、それは、學校で、あるとき、何とか大佐が來て、武勇談を話した。その話には、ある男、それは多分その大佐だつたと思ふが、あまり臆病なので、それを癒すため、毎日自分の最も恐ろしいと思ふことをしようと決心し、山へ