横光 利一
草の中
村から少し放れた寺の一室を借りた。そこでその夏を送ることにした。寺の芝生の庭には鐘樓と塔とがあつた。門には鐵の鋲を打つた大きな扉が夜でも重く默つて開いてゐた。塔の九輪の上には鳩がとまつてゐた。靜かな山寺である。寺には和尚が死んでゐなかつた。誰もゐないその寺の中を時々私は歩いてみた。佛壇もなければ内陣もなかつた。ただ平安朝時代の貴族の廣い館のやうで、裏には古い塚の傍にこれはまた清らかな水を滿々と湛へた泉があつた。雜草は丈延びて枯葉の中から生え上つてゐた。
私はこの寺を借りるとき番人から、
「あなたのお好きなやうに、」と云ふ答へを得た。番人は私に寺を任せて旅へ出て行つた。
私は一日に一度鐘樓に登つて釣り鐘を撞けばそれでよかつた。三つの捨て鐘を打つて、十二撞の繩を引くのである。その他の時は私は陽が輝けば芝生の上に出て、高い銀杏の樹の影に眠つた。微風は湖の方から吹いて來た。