山本 周五郎
八百長について
このごろ「八百長」ということがしばしば問題になるが、「八百長」そのものよりも、それをとりあげていきりたつ側のほうが、私にはひどく興ざめに感じられる。ずっとまえ、坂口安吾さんがどこかの競輪で「八百長」を発見し、この不正はどこまでも追及する。と激昂しておられた。私はあまりばかげたことなので笑ったが、そのときA紙のMさんが私をとがめて、どんなに事が軽くとも「不正を不正として糾明する態度は立派ではないか」と言った。
「それはお言葉どおりでしょう」と私は丁重に答えた。「けれどもギャンブルというものは、いかなる種類のものにも必ずインチキがついてまわる、ということが常識ではありませんか」
私は口がうまいのでMさんは黙ってしまわれた。私は自分が生れつきギャンブルぎらいなので、へたくそな将棋を若い友人とたまに指すほか、あらゆる勝負ごとに興味がないし、知っている限りの人に「勝負ごとだけはいけませんぞ」と押しつけがましいことをいう。しかし好きな人は好きなので私がなんと言おうと風馬牛である。
それはそれでよろしい、それならば「ギャンブルにはインチキがつきもの」であるということを認めて、おおらかな気持でたのしんでいただきたいものだ。