佐藤 春夫

円光

一人の画家がゐた。売出しの女優は花束でとり囲まれるが、彼は幸福そのものでとりかこまれた。若い美しい妻をめとることが出来た。二人して海の近くに新婚の旅をしてゐる間に新しい画室はタウンの端れに落成した。時は、悲しいものをより甚しく悲しましめる代りには、楽しいものにより一層楽ましめるといふ晩春初夏であつた。

‘No, not happiness; certainly not happiness! Pleasure. One must always set one's heart upon the most tragic.’といふ句を或る書物のなかから見出した時、彼が可笑くつてたまらなかつたのも無理はない。

画室は日を経るに従うてだん/\と整うた。旅から帰つた時、彼等はそこの壁の上に海洋と海岸とのスケツチを十幾枚並べて、派手な「追想」の額縁に納めて掛けた。小卓、花瓶、壺、青銅のマスク、ゴブランの片などは、それ/″\に各の位置へやすらかに落ちついて、低い声で互に自分のことを囁いた。それと同じやうなあんばいに画家の心のなかでは彼の妻が静にところを得て来たころのことである。

ある日の朝、画室の主人は一通の手紙を受けとつた。青い封筒で見なれない筆蹟であつた。差出人の名は封筒になかつた。多分これは画の注文であらう。

青空文庫の作品カード