永井 荷風

虫の声

東京の町に生れて、そして幾十年という長い月日をここに送った……。

今日まで日々の生活について、何のめずらしさをも懐しさをも感じさせなかった物の音や物の色が、月日の過ぎゆくうちにいつともなく一ツ一ツ消去って、ついに二度とふたたび見ることも聞くこともできないということが、はっきり意識せられる時が来る。すると、ここに初めて綿々として尽きない情緒が湧起って来る――別れて後むかしの恋を思返すような心持である。

ふけそめる夏の夜に橋板を踏む下駄の音。油紙で張った雨傘に門の時雨のはらはらと降りかかる響。夕月をかすめて啼過る雁の声。短夜の夢にふと聞く時鳥の声。雨の夕方渡場の船を呼ぶ人の声。夜網を投込む水音。荷船の舵の響。それらの音響とそれに伴う情景とが吾々の記憶から跡方もなく消え去ってから、歳月はすでに何十年過ぎているであろう。

季節のかわり行くごとに、その季節に必要な品物を売りに来た行商人の声が、東京というこの都会の生活に固有の情趣を帯びさせたのも、今は老朽ちた人々の語草に残されているばかりである。

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