佐藤 春夫

私の父が狸と格闘をした話

これは本当の話なのだが、あまり奇体な話なので、人が本当にしてくれるか知ら。何にせよ、本当の話なのだ。これが本当の話だということは私の故郷(紀州新宮)の人たちがよく知っている。

それは、私が十ぐらいのころのことだから、今から二十年も昔のことである。――その頃では未だ、今では人が見向きもしない自転車というものが、今の自動車ぐらいに珍重されていた。殊に大都会からかけ離れている私の故郷の地方などでは、余程めずらしいものの一つであった。皆は二輪車と言っていた。その自転車へ、その地方で一番早く乗った人は私の父であった。一たいが私の父という人は趣味の多い人で、面白いものや、美しいものや、珍らしいものや、古風なものや、或は極く新奇なものなどの好きな人で――この気質は私にも伝っているが――それ故、未だ誰も乗っていない自転車へ乗るのが面白かったのだろうと思う。それにただうれしく面白いというばかりではなく、実際の用事もないのではなかった。私の父は医者なのだが、山坂が多くって便利な交通の機関のない私の故郷などでは、医者のような遠くへ早く行く必要の多い人にとっては、自転車は重宝なものであったのに相違ない。それで、私の父はうちに人力車もあったけれども、天気のいい日や非常にいそぐ時などにはよく自転車へ乗った。

初めのうちは人が大へん珍らしがった。――父が或るところを自転車で走っていたら「あれ、あれ、あれ」と大きな声でびっくりして呼ぶ者がある。ちらと見ると、道の片わきに低い石垣があってその向うに、お爺さんとお婆さんとが日向ぼっこをしていたそうだが、このお爺さんとお婆さんとは自転車へ乗っている私の父の腰から下が

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