佐藤 春夫
道灌山
はしがき
一つの奇妙な事実談を語りたいと思う。或は少しも奇妙事ではなく、至極ありふれた事の一角だけが表面に現れて大部分が埋れかくされているためにえたいが知れないのかも知れない。そういう事が世の中には多い。きっとそんな事であろう。ともかくもえたいの知れない話である。
(一)
あれは何時だったか知ら。この家ができたのが関東大震災の翌々年の二月、それからこの家へ最初に電話の取りつけられたのはその年か、その翌年かの五月ごろでもあったろうか。するとかれこれ三十年ぐらい昔の話、その間にわたくしも壮年期から老年期に入ったばかりか、あいだに戦争などがはさまったせいもあって、あのころの家常茶飯事はおおかた忘れてしまったのに、あの話だけがふしぎと記憶に深い。それにしてもどれだけ正確に思い出せるやら。