小栗 虫太郎

失楽園殺人事件

湯の町Kと、汀から十丁の沖合にある鵯島との間に、半ば朽ちた、粗末な木橋が蜿蜒と架っている。そして、土地ではその橋の名を、詩人青秋氏の称呼が始まりで、嘆きの橋と呼んでいるのだ。

その名はいうまでもなく、鵯島には、兼常龍陽博士が私費を投じた、天女園癩療養所があるので、橋を渡る人達といえば、悉くが憂愁に鎖された、廃疾者かその家族に限られていたからであった。

所が三月十四日のこと、前夜の濃霧の名残りで、まだ焼色の靄が上空を漂うている正午頃に、その橋を、実に憂欝な顔をして法水麟太郎が渡っていた。せめて四、五日もの静養と思い、切角無理を重ね作った休暇ではあったが、その折も折、構内に於いて失楽園と呼ぶ、研究所に奇怪な殺人事件が起ったのであるから、対岸に友人法水の滞在を知る以上、副院長の真積博士がどうして彼を逸することが出来たであろうか。

また、一方の法水も、外面では渋りながらも、内心では沸然と好奇心が湧き立っていたというのは、兼々から、院長兼常博士の不思議な性行と、失楽園に纏わる、様々な風説を伝え聞いていたからであった。

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