夏目 漱石

長谷川君と余

長谷川君と余は互に名前を知るだけで、その他には何の接触もなかった。余が入社の当時すらも、長谷川君がすでにわが朝日の社員であるという事を知らなかったように記憶している。それを知り出したのは、どう云う機会であったか今は忘却してしまった。とにかく入社してもしばらくの間は顔を合わせずにいた。しかも長谷川君の家は西片町で、余も当時は同じ阿部の屋敷内に住んでいたのだから、住居から云えばつい鼻の先である。だから本当を云うと、こっちから名刺でも持って訪問するのが世間並の礼であったんだけれども、そこをつい怠けて、どこが長谷川君の家だか聞き合わせもせずに横着をきめてしまった。すると間もなく大阪から鳥居君が来たので、主筆の池辺君が我々十余人を有楽町の倶楽部へ呼んで御馳走をしてくれた。余は新人の社員として、その時始めてわが社の重なる人と食卓を共にした。そのうちに長谷川君もいたのである。これが長谷川君でと紹介された時には、かねて想像していたところと、あまりに隔たっていたので、心のうちでは驚きながら挨拶をした。始め長谷川君の這入って来た姿を見たときは――また長谷川君が他の昵懇な社友とやあという言葉を交換する調子を聞いた時は――全く長谷川君だとは気がつかなかった。ただ重な社員の一人なんだろうと思った。余は若い時からいろいろ愚な事を想像する癖があるが、未知の人の容貌態度などはあまり脳中に描かない。ことに中年からは、この方面にかけると全く散文的になってしまっている。だから長谷川君についても別段に鮮明な予想は持っていなかったのであるけれども、冥々のうちに、漠然とわが脳中に、長谷川君として迎えるあるものが存在してい

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